大洲城訪問を終え、いよいよ南予の某市へ~!
その前にもう一度川向こうから大洲城天守閣を眺めたいと思い、
対岸にある堤防へ向かいました。
堤防の横にクルマをとめ、堤防をこえ、川岸のほうへ
川向こうの丘の上に建つ天守閣の風格は、大洲のシンボルとして立派でした。
そんな立派な写真を撮ってると、離れたところにある鉄橋の上を
JR四国のディーゼルカーが走っていきます。
後日、調べたところ旧国鉄キハ32らしいですが、実際のところよくわかりません。
キハ32形気動車(キハ32がたきどうしゃ)は、1987年(昭和62年)に日本国有鉄道(国鉄)が四国向けに設計・製造した一般形気動車。
概要
国鉄分割民営化を前に、新会社の経営基盤が脆弱になると予測された北海道、四国、九州(いわゆる三島会社)の営業エリアに残っていたキハ20系などの老朽車両を取り替える目的で製造された気動車の形式の一つで、第三セクター鉄道用気動車をベースに国鉄仕様で設計されたものである。部品には廃車発生品やバス用部品などを多用して軽量化と製造コスト低減を図っている。またワンマン運転用機器が容易に取り付けられるような構造としている。
1987年、国鉄分割民営化までに新潟鐵工所(現・新潟トランシス)および富士重工業で計21両が製造された。民営化後は全車が四国旅客鉄道(JR四国)に承継されたが、追加製造は行われていない。
車体
同時期に製造された北海道向けのキハ54形500番台、九州向けのキハ31形や、先に四国向けに製造されたキハ54形0番台と製造目的は同じであるが、製造コストを低減するため普通鋼製車体とされた。しかし、同時期にメーカー2社が手がけていた第3セクター鉄道向け軽快気動車の設計手法が取り入れられて構造や材料が見直された結果、キハ40系などの従来車よりも大幅な軽量化が図られている。また、閑散路線での使用を前提としており、車体全長は国鉄車両の基本である20mより4m短縮[1]されて16mとなり、さらに車体幅も2.7mに抑えられ、当時の国鉄の旅客車両としては最小の車両となった。
側窓は従来通りのユニット窓(下段上昇の2段式。ただし、一部の車両では雨水対策のためネジで固定されている)が採用されたが、客用扉は工作の簡易化とこれによるコストダウンを目的としてバス用の2枚折戸を流用し、ドアエンジンもバス用を流用した。この扉は自動・半自動の切り替えが可能であるが、半自動動作時は手動によるドア開閉となる。なおドアロックが搭載されており、出発、到着の際に「バシッ」とロックが動作し大きな音がする。
先述のようにワンマン運転を考慮していることから、客用扉は両車端部に置かれている。運転室は半室構造であるが、乗務員扉は設置されず、運転室とは反対側の客用扉横に車掌用の前方後方安全確認のための小窓が設置されているのが特徴である。ワンマン運転対応工事の施工直後はバックミラーが車体に装備されていたが、のちに各駅のホーム上に後方確認用ミラーが設置されたため、撤去されている。
前面は中央に貫通扉を配した3枚窓である。前面窓下に前照灯と尾灯を設け、運転室窓上に行先表示器(当初は種別表示器として使用)を設置しており、バス用の手動式が流用されている。また、側面には行先票(サボ)受けを取り付けている。
製造当初の車体塗装は、アイボリー地に、側面に斜めのストライプ(地域を象徴する色として徳島が藍色、高知が臙脂色、松山が蜜柑色)を配しており、前面腰部には側面と同じ色のストライプを入れていた。のちにストライプ塗装は全車がJR四国のコーポレートカラーである水色に塗り替えられた。
ウィキベディアより
でも1両でコトコト走っていく姿は、なんとものどかです。
そして、ディーゼルカーが走り去ると、いよいよ某市へ向かいクルマを走らせたのでした。
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